みなさん、こんにちは!SAORIN☆です。
梅雨入りをして、雨が降らなくとも湿度高めな日が多いですね。それに加えて気温の高さと日差しの強さは真夏並み!今年の夏は猛暑と言われていますが(毎年そう言われている気もしないでもないけど^^;)、今からこんな調子じゃ夏本番の天候は一体どうなっちゃうんだろう!?と真夏生まれのくせに暑さが大の苦手な私は本気で心配しています。みなさんも、どうかご自愛くださいね。
今回は、イギリスの作曲家兼園芸家ジェラルド・ラファエル・フィンジ(Gerald Raphael Finzi)の「ピアノと弦楽のためのエクローグ」をご紹介します。最後までお付き合いいただけたらうれしいです。
1901年7月14日、フィンジはイギリスのロンドンで生まれました。幼少期をロンドンで過ごしますが、7歳のときに父親が他界し、その直後に第1次世界大戦が勃発。フィンジは母親とともにヨークシャー州のハロゲイトという街に移住します。
フィンジはアーネスト・ファーラーという作曲家のもとで音楽を学びますが、1917年にファーラーが徴兵されてからはヨーク・ミンスターでエドワード・ベアストウに師事するようになります。イギリスの田舎の美しさに魅了され、1922年にグロスターシャー州はペインスウィックに移住します。そこでは非常に静かな環境に恵まれ、フィンジは作曲に没頭することができたのでした。
フィンジの作品の中で初めて出版されたのが、「By Footpath and Stile(小道や柵の脇を)」というバリトンと弦楽四重奏のための連作歌曲。これはイギリスの詩人トーマス・ハーディーの詩のために作曲されたものですが、この頃にはすでにハーディーはフィンジの一番のお気に入りの詩人となっていたのでした。
ほどなくして地理的な隔たりや音楽的な孤立に耐え切れなくなり、1926年にフィンジはロンドンに戻ります。(たった4年で耐えられなくなるものなのですね…)そして、フィンジは当時のイギリスのなかでも傑出した教師の1人であるレジナルド・オーウェン・モリスのもとで音楽を学び始め、そこでヴォーン・ウィリアムズに出会います。ウィリアムズは1928年にフィンジのヴァイオリン協奏曲を指揮した人物でもあります。また、ロンドン時代の知人にはホルスト(組曲「惑星」で有名ですね)、ブリス、ラッブラ、ファーガソンがいますが、特にファーガソンはフィンジの生涯の友であったと言われています。
フィンジは1930年から王立音楽院で教鞭を取るようになりますが、芸術家であるジョイス・ブラックとの結婚を機にバークシャー州のアルドボーンという田舎に移住することになったために、1933年には職を退きます。同じく1933年にフィンジは連作歌曲「A Young Man’s Exhortation(ある若者の忠告)」の完全版の演奏にこぎつけますが、それはフィンジにとってロンドンでの初めての成功となったのでした。
田舎暮らしを始めたフィンジはあるとき、イングランド原産のりんご品種が激減していると訴えるラジオ放送を聞いて大変に心を動かされます。そのラジオの声の主であり、建築批評家でワインと食に関するジャーナリストでもあったモートン・シャンドにさっそく手紙を書き、残存りんご品種の保護と品種改良に自ら乗り出します。
フィンジたちのりんご栽培家グループの努力によって、当時絶滅の危機に瀕していたイングランド原産のりんご品種は何とか守られたのでした。このことがきっかけでフィンジは生涯、特有の風味のあるイングランド産りんごの品種保全に情熱を注ぐことになります。(フィンジが園芸家でもあると言われる理由がようやくわかりましたね)このりんご栽培家グループには、のちにロイヤルフェスティバルホールを設計することになる建築家サー・ジョン・レスリー・マーティンも所属していました。
作曲家としてのフィンジのキャリアは急成長を遂げていましたが、残念ながらそれは第二次世界大戦の勃発によって阻害され、Three Choirs Festivalという音楽祭で公演するはずだった連作歌曲「Dies Natalis(誕生の日)」も中止に追い込まれます。この公演が実現されれば、フィンジの作曲家としての地位は確固たるものになるはずだったんですけどね…。1939年にフィンジ夫妻はウィルトシャー州はニューベリーの近くにあるアッシュマンズワース村に移住します。
第二次世界大戦中、フィンジは戦時運送省に召喚されるとともに、自宅をドイツやチェコの難民たちのために開放することとなります。フィンジは地元のアマチュア奏者を集めてニューベリー弦楽団を設立し、亡くなるまで指揮者を務め続けました。フィンジは自らの作品の初演を行うだけでなく、それまでほとんど目を向けられることのなかった18世紀の弦楽曲の数々を蘇らせていきます。そして第二次世界大戦が終わって平和が戻ると、フィンジはさまざまな楽曲制作の依頼を受けることとなるのです。フィンジの作品で最も有名と言われるクラリネット協奏曲もこの一連の流れの中で作られたものなんですよ。
1951年、ホジキンリンパ腫という白血病の一種に罹患していることが判明し、余命5~10年との宣告を受けます。だからと言ってフィンジは自らの活動を制限するようなこともなく、他の作曲家たちのための活動はそれまでと同様にこなしていきます。1954年、ロンドンにあるロイヤルフェスティバルホールにてオールフィンジプログラムのコンサートが開催され、フィンジはイギリスの音楽人生においてようやく認知されることとなります。(遅すぎるよ…)1955年にはチェロ協奏曲が公演されるのですが…フィンジは翌1956年9月27日、数年間の闘病の末にその生涯を閉じます。
今回ご紹介するアルバムの3枚中2枚が「買い直しましたシリーズ」です。中学・高校と部活でときどきお世話になっていた地元の先輩が大絶賛していたフィンジ。彼のイチオシは確かクラリネット協奏曲でしたが、チェロ協奏曲が収録された別のアルバムも紹介してくれたんですね。「同じアルバムに収録されているエクローグも素敵だよ」という言葉も添えて。ただ、当時の私の心を奪ったのはクラリネット協奏曲でもなくエクローグでもなく、舞台音楽「恋の骨折り損」から抜粋された『独白』シリーズでした。舞台音楽として作曲されただけのことはあってテーマも旋律もはっきりしているから聴きやすかったのだと思います。ちなみに…あまり知られていませんが「恋の骨折り損」ってシェイクスピアの喜劇なんですよ。
その先輩が紹介してくれたのがNAXOS盤だったために、最初は迷わずNAXOS盤を購入。チェロ協奏曲やエクローグのほか、「大幻想曲とトッカータ」も収録されています。演奏の質はさすがのNAXOS、なかなか良いです。
その後、フィンジつながりでクラリネット協奏曲のアルバムも購入。ここからが「買い直しました」シリーズです。バガテル、「恋の骨折り損」(抜粋)、エクローグも収録されていますが、私は一度聴いただけで「恋の骨折り損」にハマってしまいました…。
そして…お気に入りの「恋の骨折り損」が全部聴ける!ということで、最終的にはNimbus盤も購入。当時の私はまだまだ幼かったからかその良さをあまり理解できていませんでしたが、十数年の時を経て改めて聴いてみるとエクローグの旋律や構成の美しさが耳に心地良くて。そうした経緯から、今回はエクローグをご紹介することにしました。もちろん、クラリネット協奏曲や「恋の骨折り損」も聴いてみてほしいんですけどね。
それでは、エクローグの解説に移ります。
「ピアノと弦楽のためのエクローグ」
エクローグとは、「牧歌的な対話」を意味する言葉です。このエクローグには対位法が用いられており、ピアノと弦楽合奏の旋律が交互に現れたり絡み合ったりしながら穏やかな曲想が展開されます。
演奏時間が10分ほどの小品ですが、ただただ美しい。そのひとことに尽きる作品だと私は思います。ひとたびこの作品を聴き始めれば、冒頭でピアノソロが織りなす透明感のある叙情的なテーマにさっそく引き込まれることでしょう。端正な造形の旋律には常に言い知れぬ孤独感が付きまとっていますが(幼少期に身近な人を相次いで亡くした経験が影響していると言われています)、中盤に向かって徐々に高まりを見せ、束の間の幸せを愛おしんでいるかのような柔らかく切なく美しい旋律が現れます。不安のなかに沈んでいくかのような終末も含め、全体を通してフィンジならではの内省的な表現を味わうことができる作品です。
もともとは1920年代後半にピアノ協奏曲の第2楽章として作られた曲ですが、1952年に協奏曲自体が未完のまま終わり、エクローグとして残されました。フィンジの死後である1957年まで出版されることも演奏されることもなかったのだとか。フィンジが亡くなったのが1956年ですから、もう少し早く出版にこぎ着けていれば…と悔やまれてなりません。
最後まで読んでくださってありがとうございます!
次回のコラムが完成する頃にはきっともう夏真っ只中!ということで、ニュージーランドの現代作曲家を、ぜひとも夏に聴いてほしい爽やかなサウンドが印象的な交響曲とともにご紹介します。南半球の国の作曲家を取り上げるのは初なので、自分1人で勝手にワクワクしてしまっていますが…みなさんも、どうぞお楽しみに☆
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【参考文献】